宮西悠司という男

宮西先生は、70年安保時代に都立大学にいた。ちなみに波多野先生はそのとき助教で、助教の地位の向上のため当局と闘ったと(そして今日助教の給料が高いのは彼のおかげであると)聞いている。宮西先生は世田谷区出身のシティーボーイで学生運動を尻目に見ながらボート部に入部。当時の学生運動に対しては、リアリティーを感じられなかったからだという。
彼はボート部で青春を燃やすことを決意する。学生運動になじめなかった多くの学生がボート部などの体育会に入ったという。最初はこぎ手として参加していたものの、やがてマネージャーになれと先輩から言われて、以降部員たちの生活を支える使命に身を捧げることになる。当時の学生はみな貧しかったという。都立大の中では歴史のあるボート部(漕艇部)だが、東大などと比べると装備の貧しさに情けなくてしょうがなかったという。
彼は、合宿先の手配から食事やアルバイトの手配まで「貧しい学生のためになんとかしてあげたい」一心で奉仕したという。その気持ちが、将来の真野地区での係り方につながっているのだという。彼は長身でがたいがよいほうだが、母性愛のようなものを感じる時がある。ボート部の部員に対して自分が支えてあげなくてはならないといった愛情のようなものを学生時代に抱いていた青年だったとは。
だが、彼はボート部を突然離れ、神戸市に移住する。それは彼自身「ボート部に対する裏切りだった」という。70年安保はあっけなく学生の大敗に終わり、大学の授業も満足に受けられず、卒業もできなくてふらふらしていた頃、彼は自分自身が分からなくなり神戸に行くことを決意した。当時多くの学生がそのような感情を抱いていたという。私は、いるかのなごり雪の「・・・ふざけすぎた季節の後で、今春が来て・・・」を思い出す。
彼は神戸という新天地で「自由」を手に入れ、たまりたまっていた不完全燃焼の燃え粕を一気に燃やすこととなった。これが真野地区の伝説の始まりである。
彼の70年代末から80年代初頭の真野での会議のテープを聴くと、ところどころ建築基準法や都市計画法の認識の誤りが見え隠れする(つまり知識的には素人なみだが)ものの、専門家としてどうどうとした話っぷりをしている。まるで20年間も都市計画をやってきたベテランコンサルタントのように。そして気概を感じる。
ここに私は社会学でいう「サイコヒストリー」を引用せざるを得ない。サイコヒストリーとは、辺境の地で育った主人公が自己のアイデンティティを強く求めようとした企てが、大衆の社会的共鳴盤を揺り動かし社会変革をもたらすという過程を明らかにする研究である。代表的な例がヒトラー、ガンディー、ルターなどであるが、宮西先生もまさしくこれだと思った。

宮西先生は、復習をしないと自ら語る。後ろを振り向かないということだろう。あるいは過去のことに未練を持たないということかもしれない。
「復習をしない」とはペーパー型のフィードバックをしないということだ。
しかし、先生はとても記憶の良い人だ。頭の中で情報を管理されている。普通ならば外在化しないとなかなか抽象的な分析ができないものだが、彼は頭の中でやっている。
頭の中というのは実に調法だ。重要なものは記憶に残り、そうでないものは自然と忘れていく。重要な情報だけ管理していれば良い。
しかし、それゆえに彼の判断の過程が外から分かりにくい。彼のコンサルタントとしての技を評価したり、後継者に渡していくことが困難なのである。
よく、コンサルタントの評価は、できあがった町で評価すればいいという意見を耳にする。
しかしそれはハードに偏った詭弁に過ぎない。
真野地区に近接して丸山地区というのが神戸市にはある。
むしろ丸山地区の方が先輩にあたり、国内での注目度も高かったが、そこに入ったコンサルタントは宮西先生とは異なり、三宮の再開発など数々の業績を残した人だが、丸山地区では住民運動をまちづくり協定に至らせることはできなかった。
丸山ではコミュニティ・オーガニゼーションが失敗した。
真野地区(実はいろいろやっているが)も出来上がった町を見てもそんなに顕著な成果は感じられない。
しかし、真野では住民の知らない間に看板一つ立つことさえ、ありえない。
住民民主主義というソフトが成立しているからだ。
それは宮西先生がコミュニティ・オーガニゼーションで成功したことを意味する。
それを彼自身は「住民に受け入れられた」と表現している。
私は、そんな彼の職人芸的なコミュニティ・オーガニゼーションの技法を「見える化」したくて研究を続けている。
その途中報告的なものが、地域社会学会年報27集に掲載されることになった。