寛容であるだけでなく筋を通す市民(国民)であれ

「泣いて馬謖を斬る」・・・最近これを使った政治家は、石原老知事だ。(やや意味を取り違えているように思うが。)

規律に背いた者がたとえ腹心であっても、道理を通すためには彼の責任を不問にしてはいけないという意味だ。

福島原発の吉田所長もその意味でまずは罰せられなくてはならないはずだ。

戦場でも現場の判断で、指揮官の命令に背きながらも、その臨機応変な態度が大勢を救うことはある。しかし、その功績は、まずは軍法会議で罰せられた上でのことだし、当事者はそれを分かっていて判断している。

そうでなくては道理が立たない。

枝野官房長官は、3月12日時点で「大量の放射線漏れはない」「具体的な危険はない」と国民に発表した。まさにかつての「大本営」を演じた立役者と言える。

にもかかわらず、枝野氏の責任はいまだに不問のままだ。次期総裁の候補にまで挙がっている。

このような事例が今回は多すぎる。上に立つ者が、地震や津波のせいないしは東電のせいばかりにして、自分の情報収集能力の脆弱性については反省も謝罪もない。

ましてや、東電より上の立場に立ち、本来なら情報収集能力も上を握っていなくてはならない政府(枝野官房長官)が、東電からの情報がなかったことを言い訳にするとは何事か。

いずれにしても国民に誤った情報を公式に発信した枝野氏は、まずは責任をとって謝罪するべきではないのか。そのような公論を形成するのが市民の役目ではないのか。

そうしなければ危うい方向に国は流れだすような気がしてならない。

一方、松木けんこう代議士は、自ら筋を通した。党の規律に背いた責任は「除名」という罰で受けた。それを分かっていて彼は国民を救おうとした。

私は彼のような代議士が「ふつう」の代議士だと思う。

このような代議士を総選挙で選ぶかどうかも、また市民(国民)の役割ではなかろうか。